横浜とブラジルのつながりをたどる

Immigrant Hotel 旧移民宿(関内・桜木町)

日本の鉄道の営業は、1872年(明治5年)新橋と桜木町間で始まります。その横浜停車場と大さん橋との間の相生町、住吉町、馬車道北側一帯には外航汽船への乗船までの準備を支える移民宿が30軒ほど立ち並んでおり、初期にはハワイや北米へ、後にはブラジルをはじめとする中南米への移民たちが滞在しました。また、これら移民宿は入植先で成功して日本へ里帰りや観光で戻る移民たちの受け入れでも賑わいました。しかし、外洋船から航空機に移住の手段が変化し、1981年には最後の移民宿「熊本屋」がその営業を終えています。
 このエリアには、主要銀行の支店、教会、県庁、生糸検査場、税関、保税倉庫など歴史的建造物もあまた点在しています。これは開国以来、輸出額1位の産
品として日本の発展を財政的に支えた生糸輸出とも繋がっています。八王子と桜木町をつなぐJR横浜線は、生糸生産の盛んな甲州・信州からの輸送を目的として、奇しくもブラジル移民が始まった1908年に開通しました。

 

 

 

 

豆知識「白いセナと黒いペレ」

肌の色での差別はあまりないブラジルですが、貧富の格差は厳然と存在し、ファベーラと呼ばれる大きなスラムは各地にあります。伝説のF1レーサー・アイルトン・セナは、幼少時からゴーカートに興じる富裕層の生まれでした。一方でサッカーの神様ペレの生まれは貧しく、富を得るためにサッカー選手となることが彼らの夢であり、数少ない手段の一つでもありました。そのようなブラジルの現実を示す言葉です。
横浜FCのキング・カズが、1986年にプロ契約したサントスFCは、ペレが在籍した名門。サントスは、かつて横浜港を出航した移民船の目的地でもありました。カズがブラジルで学んだこと。ブラジルはサッカー王国ですが、地方から何時間もバスに揺られて町に出て、コツコツ貯めたお金でチケットを買って、一生に一度のプロリーグ観戦を楽しみに来る貧しい人々も少なくありません。カズは、そのような人々のために常に全力で自分ができる最高のプレーをすることを誓ったそうです。そんなブラジルの体験が現役を続けるキングカズの力になっているのかも知れません。

Landmark Tower ランドマークタワー(みなとみらい21)

横浜みなとみらい21は、1980年代から現在に至る横浜駅周辺と関内地区をつなぎ一体化するエリアの都市計画です。三菱重工横浜造船所などの移転に伴い、その跡地を中心にランドマークタワー、クイーンズタワー、インターコンチネンタルホテル、パシフィコ横浜などが建設されました。ちなみに、高層階ほど細くなるランドマークタワーは灯台、階段状のクイーンズタワーは波、円弧を描くインターコンチネンタルホテルは船の帆のイメージで設計されています。2012年まで日本一高いビルだったランドマークタワーの壁面は、ブラジル産の御影石(花崗岩)で覆われています。見栄え、耐久性、安全性に優れたブラジル産御影石は、ローマ時代から石材加工に優れたイタリアでも一部加工され、スエズ運河経由で横浜に着きました。
ランドマークタワーの隣には、1896年(明治29年)に竣工したドックヤードが重要文化財として保存されており、外国との往来が船舶中心で横浜港が活況を呈していた時代を偲ぶことができます。

 

 

Rinko Park 臨港パーク

ベイブリッジを間近に横浜港の中心部を眺望できるみなとみらい地区最大の緑地で、日本ブラジル修好100周年を記念した虹のモニュメントがあります。同じものが地球の反対サンパウロ市のパンアメリカン広場にもあり、二つの国を結ぶ虹の架け橋となっています。
また、ペルーへの移住100周年の記念像「リマちゃん」もパークから太平洋を望んでいます。6000キロの海を越えたペルーの首都リマには移住90周年の記念像「さくらちゃん」が日本を望んでおり、二人の握手が両国の絆を深めています。
ペルーへの最初の移民は1899年、ブラジルへは10年後の1908年から始まりますが、南米の半分の国土を占めるブラジルへの移民が拡大します。1923年に日本政府はブラジルに南半球初の日本大使館を開設します。当時はほかに英、米、仏、独、伊、露の6カ国いわゆる列強にだけ大使館が置かれていました。それだけ、日本移民が多いブラジルを重視していたとも言えそうです。

JICA Yokohama JICA横浜・海外移住資料館

政府開発援助(ODA)の実施機関である国際協力機構(JICA)の国内拠点の一つで、みなとみらい21プロジェクトに呼応して2002年に運営が始まりました。JICAは戦後の移住事業を牽引してきた海外移住事業団の業務を引き継いで、横浜根岸で現代版移民宿でもある海外移住センターを運営して来ましたが、1980年代には海外移住もなくなり、日系人子弟の日本での研修などを行うようになっていました。JICA横浜は、ODAとしての開発途上国からの様々な技術研修員の受け入とともに、引き続き日系社会の次代を担う人材の技術や日本語などの研修を行っています。さらに、我が国の移住の歴史や日系社会を知ることができる海外移住資料館が併設されており、ハワイ移民から始まる150年以上に及ぶ移住者たちの入植地での苦労や喜び、努力や成果などを具体的に見ることができます。
開館時間: 10:00〜18:00 月曜休館
入場無料
なお、JICA横浜には公益財団法人 海外日系人協会も事務所を置いています。

LARA Licensed Agencies for Relief in Asia ララ物資記念碑

新港地区にある戦後の日本の窮状を救ったララ物資への感謝を詠んだ香淳皇后(昭和天皇妃)の歌碑です。
「ララの品つまれたるを見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ
あたたかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも」 とつ国=外国
戦後、日本国民全体が日々の食料にも事欠く窮乏生活となりましたが、終戦翌年の1946年(昭和21年)にサンフランシスコ在住の日系人が中心となって結成した「日本難民救済会」が母体となってララ(LARA: Licensed Agencies for Relief in Asia: アジア救援公認団体)が設立され、食糧や医薬品などが提供されました。その第一便(ハワード・スタンズペリー号)は1946年11月に横浜港に到着しています。ララの支援物資は1952年まで続き、当時の額で400億円という膨大な金額であったと推定され、そのうちの2割は日系人が寄贈したものと言われています。

Osanbashi 大さん橋

日本を代表する客船桟橋で横浜港のシンボル、ハワイや中南米への移民を乗せた客船の多くがここから出航しました。1894年に現在の大さん橋の前身となる「鉄桟橋」が建設され、拡張や関東大震災による倒壊などを経て、2002年に現在の大さん橋国際船客ターミナルが完成しました。特徴は建物内部や屋上がブラジル産で国花でもあるイペーを使ったウッドデッキになっていることで、天然芝の緑地も設けられており「くじらのせなか」の愛称で知られています。また、年間の客船入港数では全国の港湾の中で1位を続けています。

ところで、横浜から出航した移民船が50日の船旅で到着する目的地は、南米最大の港サントス港です。サントスにはブラジル移民100周年の2008年に日本人移住者の記念碑が設立されました。また、第二次世界大戦中に接収されていたサントスの日系人会館がブラジル政府からこの年に現地の日系社会に返還されました。ブラジルSolidário横浜の斉藤理事長は、横浜市議としてもサントスの日系人社会や日系地方議員の方々と交流を深めています。

 

 

豆知識「リオオリンピックの聖火」

ブラジル日系人は、政治家、学者、実業家、芸術家など様々な分野で活躍していますが、リオ・オリンピックの聖火トーチをデザインしたのは、日系人デザイナーのロミー・ハヤシさんです。